于山島の考察

このページでは、資料を整理し、于山島がどの島を指すかを考察します。

韓国政府の主張

まず、于山島=独島=現:竹島であるとする韓国政府の主張です。

記録により証明された独島の昔の名前「 于山島(ウサンド)」
新羅(57-935)は鬱陵島と独島を領土にした于山国(ウサングク)を512年に併合した。その時から公式的な文書に「独島」という名前が登場する。世宗実録地理志(1454)は鬱陵島と独島を武陵島と于山島として記録しており、『高麗史』(1451)、『新増東国輿地勝覧』(1530)、『東国文献備考』(1770)、『万機要覧』(1808)、その他多数の文書により于山島が独島の昔の名前であったことが証明される。これにより20世紀初めまでの数世紀間、于山島が現在の独島を指していたことがわかる。

つまり、于山島=独島ならば韓国領、于山島≠独島ならば日本領となります。


資料による検証

次に、1905年までの地図、文献を元にどの島を指しているかを推定します。

資料名 作成年 比定
高麗史巻五十八 1451年 不確定
新増東国輿地勝覧 1530年 存在しない島
粛宗実録 1696年 独島
鬱陵島圖形 1711年 竹嶼
廣輿圖 1737-1776年 竹嶼
東国文献備考 1770年 独島
日省録 1807年 竹嶼
万機要覧 1808年 独島
大東輿地図 1861年 竹嶼
大韓地誌 1899年 竹嶼
勅令第四十一号 1900年 観音島



高麗史巻五十八は文の解釈により于山島の扱いが変わるため、不確定としています。

一説には、于山・武陵(鬱陵島)この二島は互いに距離は遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。

鬱陵島から竹島・独島は、場所によりますが晴天であれば見ることが出来ます。
これは韓国人日本人問わず、多く検証されており、間違いないと思われます。

しかし、高麗史記載の「望み見ることができる」のは、竹島・独島ではなく鬱陵島であるというのが日本の主張です。

次の項で説明されていますが、朝鮮では1700年以前まで鬱陵島は2つの島からなると考えられていたと思われます。

高麗史巻五十八のいう于山が存在しない島とするならば、「この二島は互いに距離は遠くなく」の部分がなくなり、こうなります。

一説には、武陵(鬱陵島)は、天候が清明であれば望み見ることができる。

実際に朝鮮半島からは、天候が良ければ鬱陵島を確認することができます。



新増東国輿地勝覧については、鬱陵島西側に存在しない島として描かれています。

この理由として考えられることは、1700年頃まで、鬱陵島は2つの島で構成されていると勘違いしていたためと推測されます。

その根拠になりうるヒントが、海軍水路局政策の水路雑誌に描かれています。

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鬱陵島付近は元々雲や霧が発生しやすく、鬱陵島内の渓谷に霧がかかり、2島のように見えた可能性があります。

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これは、次のサイトにて詳しく検証されています。


これで鬱陵島西側に于山島がある理由が説明できます。
つまり、1700年以前の朝鮮では独島どころか鬱陵島すらも正確に把握できていなかったことがわかります。



東国文献備考万機要覧は竹島・独島を指し、韓国政府が独島領有の根拠としている資料です。
ただし、この2つの資料は、どちらも粛宗実録を元に製作されていると思われ、粛宗実録は安龍福の証言を元に製作されています。

つまり、安龍福の証言が信用できるかどうかがポイントとなります。

これについては、粛宗実録に各主張を掲載しておりますので、そちらをご覧ください。



鬱陵島圖形廣輿圖大東輿地図大韓地誌では于山島は竹嶼を描いていると推測されます。

理由として、鬱陵島の東側または北側に島が描かれており、形状が竹島・独島より竹嶼に似ているためです。

鬱陵島圖形には、竹がたくさん生えていると書かれております。
竹島・独島は竹が自生する環境ではなく、竹嶼である根拠とされています。

日省録では、于山島が鬱陵島の北にあって、周囲が約1kmであることが書かれています。
北有于山島周回為二三里許
竹嶼は鬱陵島の北東にあり、700mに及ぶ細長い島で、条件に合致します。



勅令第四十一号では石島を鬱島郡に帰属しました。

現在も石島がどの島を示すかは不明とされていますが、最も可能性が高いのは、観音島であるとされています。



  • 最終更新:2014-12-03 09:45:33

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